第 1 章 はじめに傷ついた脳は、回復する力を持っている
第1部の最後で、こうお伝えしました。脳に起きた変化は「破壊」ではなく「変化」であり、その多くはもとに戻りうるのだ、と。この第2部は、その「戻りうる」を、もう少しくわしく見ていく旅です。
ここで大切なのは、ケアの一つひとつには、ちゃんと「効く理由」があるということです。呼吸を整えるのも、考え方を見直すのも、つらい記憶を語りなおすのも、どれも「なんとなく気が晴れる」という話ではありません。第1部で見た4つのはたらきの、それぞれ違う場所に、違うやり方で働きかけているのです。
その「どこに効くか」を、これから各ケアごとに、第1部と同じ4つの色でお示ししていきます。色を見れば、「ああ、これは警報係(扁桃体)をなだめるのだな」「これは記憶の整理係(海馬)を助けるのだな」と、ひと目でわかるようにしました。
第1部の4つのはたらきを、もう一度。この色で「効きどころ」を示します。
※ 各ケアに添える色は、あくまで「とくに深く関わる、主なはたらき」を示すものです。実際には、ひとつのケアが脳の複数の場所に、同時に、複雑に影響し合っています。色分けは、理解の手がかりとしてご覧ください。
第 2 章 回復の基本原理「アクセルをなだめ、ブレーキを取り戻す」
たくさんのケアを見ていく前に、そのすべてに共通する「大きな原理」を、ひとつだけ押さえておきましょう。これが分かると、あとの話がぐっと見通しやすくなります。
第1部で、扁桃体を「アクセル(警報)」、前頭葉を「ブレーキ(なだめ役)」にたとえました。こころの傷とは、おおまかに言えばアクセルが踏まれっぱなしで、ブレーキが効きにくくなった状態でした。だとすれば、回復とは——アクセルをなだめ、ブレーキを取り戻すことにほかなりません。
回復には二つの方向があります。「上から(考えでなだめる)」と「下から(身体でしずめる)」。
第 3 章 ケア ①リラクゼーション ― 警報を、鳴りやませる
下から(ボトムアップ)のケア
リラクゼーション法
呼吸・筋弛緩などで、身体からしずめる
もっとも土台となるケアが、リラクゼーションです。ゆっくりと深い呼吸、とくに吐く息を長くする呼吸には、高ぶった身体をしずめる確かな力があります。
どうして効くの?
息をゆっくり吐くと、身体を休ませる神経(迷走神経)がはたらき、心拍がゆるみます。すると、その「落ち着いた身体の状態」が脳に伝わり、警報のはたらき(扁桃体)がしだいに静まっていきます。さらに興味深いことに、呼吸に注意を向ける練習を続けると、扁桃体と前頭葉をつなぐ通り道そのものが強まりうることも報告されています。身体からのアプローチが、なだめるはたらきまで後押ししてくれるのです。
考えで気持ちを立て直すのが難しいほど動揺しているときでも、呼吸なら整えられることがあります。だからリラクゼーションは、多くのケアのいちばん最初の一歩として、とても大切にされています。
第 4 章 ケア ②マインドフルネス ― 気づく力を、育てる
気づきを育てる、ゆっくりしたケア
マインドフルネス
「いま、ここ」の感覚に、そっと気づく練習
マインドフルネスは、いまの瞬間の感覚——呼吸、身体の感じ、聞こえてくる音——に、評価をせず、そっと気づいていく練習です。続けることで、身体の声を伝えるはたらき(島皮質)や、心の状態に気づくはたらき(前頭葉)が、少しずつ育っていくことが分かっています。
どうして効くの?
「いま、自分は不安を感じているな」と、感情に気づいて距離をとれるようになると、その感情に飲みこまれにくくなります。長く続けた実践者では、身体感覚や気づきに関わる脳の部分が、厚くなっていたという報告もあります。気づく力そのものが、育てられる筋肉のようなものなのです。
ただし、すべての人に向くわけではありません
身体の内側に注意を向けるこの練習は、つらい記憶と身体が強く結びついている方にとっては、かえって不安や違和感を強めてしまうことがあります。とくに、気持ちが大きく揺れやすい方や、解離を経験しやすい方には、慎重さが必要です。その場合は、無理に内側を見つめず、外の音や景色に意識を向ける別のやり方(第3部でご紹介します)のほうが、安全で心地よいことがあります。合わないと感じたら、やめてよいのです。
大切なのは、「マインドフルネスが向かない=自分には回復の道がない」ということでは、決してないという点です。合う道は、人それぞれにちゃんとあります。その見分け方については、第3部でくわしくお話しします。
第 5 章 ケア ③認知行動療法 ― 考え方の癖を、見直す
上から(トップダウン)のケア
認知行動療法(CBT)
出来事の「受けとめ方」を、ていねいに見直す
わたしたちは同じ出来事でも、「受けとめ方」しだいで、感じる苦しさが変わります。認知行動療法は、その受けとめ方(考え方の癖)に気づき、より現実に沿った、しなやかな見方へと整えていくケアです。
どうして効くの?
「この状況を、別の角度から見なおす」という作業を繰り返すと、なだめ役の前頭葉が鍛えられ、警報係の扁桃体へのブレーキが効きやすくなります。実際に、CBTのあとで扁桃体や島皮質の過剰な反応が落ち着くことが、くり返し報告されています。考え方を変えることは、精神論ではなく、脳のはたらき方を変えていく作業なのです。
第1部でお話しした「気づくはたらき」「鎮めるはたらき」「意味を見いだすはたらき」——CBTは、この3つすべてを、少しずつ強くしていくトレーニングだと言えます。
第 6 章 ケア ④感謝を綴る ― 肯定的なものを、受け取る
時期を選ぶ、受け取る力を育てるケア
感謝を綴る
受け取った善意を、言葉にして書いてみる
このシリーズのきっかけにもなった、興味深いケアです。誰かから受け取った親切や善意を思い出し、その人への感謝を言葉にして書いてみる——ただそれだけの、短い実践です。
どうして効くの?
感謝を綴るとき、脳は「あの人は、わたしのために何かをしてくれた」と、他者の気持ちを読み、その善意を評価しています。これは第1部でお話しした、意味を見いだすはたらきや、鎮めるはたらき(前頭葉)そのものです。ある研究では、たった数回の感謝の手紙を書く体験が、3か月後も脳に変化を残していたことが示されました。短い経験が、長く残りうる、という一つの興味深い報告です。
大切な注意 ― すべての時期に合うわけではありません
感謝を綴ることは、こころに深い痛みが渦巻いている時期には、かえって負担になることがあります。まだつらい記憶や強い感情の波に日々ふりまわされている段階で「感謝しましょう」と言われると、「そんな余裕はない」「自分の苦しみを分かってもらえない」と、深く傷つく方が少なくありません。
このケアが力を発揮しやすいのは、日々のつらい反応(第1部でお話しした、警報の鳴りすぎや、記憶の混乱など)が、ある程度落ち着いてきた時期です。そこから先、「自分はどう生きていきたいか」「何を大切にしたいか」という、もっと奥にある問いに向き合えるようになったとき、感謝はやさしい道しるべになります。
もし、いま「感謝」という言葉に、抵抗や苦しさを感じたなら——それは、あなたが間違っているのではありません。まだそのケアの時期ではない、というだけのことです。無理に感謝しようとせず、いまのつらさに、まず向き合うことを優先してください。
じつは、感謝の研究を長年続けてきた研究者自身も、「感謝は豊かな感情だが、同時に複雑なものでもある。感謝を表すとき、負い目や気まずさを感じることもあり、必ずしも心地よいとは限らない」と述べています。また、強いうつや不安を抱える方に、感謝の実践がどう影響するかについては、研究がまだ十分ではないことも指摘されています。
トラウマを抱えていると、「善意を受け取る」こと自体が難しくなりがちです。感謝を綴る練習は、そのタイミングが来たときに、「受け取る力」を、少しずつ取り戻していく、やさしい入り口になります。この実践が持つ、もう一段深い意味については、第3部であらためて触れます。
第 7 章 ケア ⑤ナラティブ・エクスポージャー ― 人生を、物語として取り戻す
記憶を整理しなおす、中心的なケア
ナラティブ・エクスポージャー(NET)
人生を時系列に並べ、記憶に「時と場所」を返す
NETは、生まれてから今までの人生を、時間の流れにそって並べていくケアです。うれしかった出来事もつらかった出来事も、ひとつの人生の物語として、順に語りなおしていきます。
どうして効くの?
第1部で、トラウマの記憶は「いつ・どこで」の札が貼られないまま残る、とお話ししました。NETは、まさにこの札を貼りなおす作業です。生々しい「熱い記憶」(感覚や感情)を、「あれは、いつの、どこでの出来事だった」という「冷たい記憶」(時と場所の情報)と結びつけていく。これによって海馬の整理を助け、記憶が「いま、ここ」に噴き出してくるのを鎮めていくのです。
そして、ただ思い出すだけではありません。人生全体の流れのなかにその出来事を置きなおすことで、「あれには、こういう意味があったのかもしれない」という意味づけ(前頭葉のはたらき)も、自然にうながされます。バラバラだった記憶の断片が、ひとつづきの「わたしの物語」になっていくのです。
第 8 章 ケア ⑥TSプロトコール ― 身体に残る記憶へ、やさしく
身体と自律神経に働きかける、やさしいケア
TSプロトコール
身体の感覚を手がかりに、負担少なく整える
トラウマの記憶は、言葉になる前に、身体に残ることがあると言われます。TSプロトコールは、そうした身体の感覚を手がかりに、できるだけ負担を少なくしながら、トラウマ反応を整えていくケアです。左右交互のやさしい刺激(両側刺激)などを用います。
どうして効くの?
これまで紹介したケアの多くは、「考え」や「言葉」を通して働きかける、いわば上からのアプローチでした。TSプロトコールは、それとは系統の異なる、身体から働きかける下からのアプローチです。つらい記憶を言葉でくわしく語らなくても、左右交互のやさしい刺激そのものに、整える力があることが知られています。とくに、繰り返し傷ついてきた方には、言葉によるアプローチより、こちらのほうが合うことが少なくありません。
NETが「言葉で物語を整える」ケアだとすれば、TSプロトコールは「身体から整える」ケア。この二つは、車の両輪のように補い合います。どちらから入るのがよいかは、その方の状態によって、ていねいに選ばれます。
※ TSプロトコールは、精神科医・杉山登志郎先生によって開発された技法です。その作用機序(迷走神経・自律神経への働きかけなど)を含め、くわしくは杉山登志郎『テキストブック TSプロトコール』(日本評論社)をご参照ください。
第 9 章 ケア ⑦カウンセリングそのもの ― 「安全な関係」という土台
すべてのケアを支える、土台
安全な関係そのもの
信頼できる人と、共にいるということ
最後に、そして実はもっとも大切なのが、これまでのすべてのケアを支える土台——安全な関係そのものです。特別な技法ではありません。信頼できる誰かと共にいて、自分の物語を、否定されずに受けとめてもらう。その体験自体が、脳にとっての回復の力になります。
どうして効くの?
人が安心してつながりを感じるとき、脳では「オキシトシン」という物質が働きます。これは信頼や絆に関わることで知られていますが、動物を対象とした研究では、オキシトシンが、記憶を整理するはたらき(海馬)を強いストレスの影響から守る可能性も示されています。人において「安全な関係のなかにいる」ことが、そのまま同じ効果をもたらすと言い切れるわけではありません。それでも、安心できる関係のなかで、警報のはたらきがなだめられ、こころが回復に向かうことは、多くの臨床の現場で確かめられてきたことです。
どんなに優れた技法も、安心できない関係のなかでは力を発揮しません。逆に、安全な関係という土台があれば、そこで交わされる一つひとつのケアが、ずっと深くはたらきます。技法は、この土台の上で、はじめて生きるのです。
第 9 章 ・ まとめひとつの「効きどころ」だけのケアはない
7つのケアを見てきて、お気づきになったかもしれません。どのケアも、たったひとつの場所だけに効くのではなく、いくつものはたらきに、少しずつ働きかけていました。
リラクゼーションは身体から警報をなだめ、CBTは考えるはたらきを鍛え、NETは記憶を整理し、安全な関係はそのすべてを支える。まるで、4つのはたらきを、いろいろな方向から少しずつ手当てしていくようなものです。
だとすれば、次に浮かぶ問いはこうです。「これだけたくさんのケアを、どういう順番で、どう組み合わせればよいのだろう」。しかも、人によって合うケア・合わないケアがある。その組み合わせと順番の話——そして「回復の、その先」の話を、最後の第3部でお届けします。
第 3 部 へ つづく
回復の、その先にあるもの
ケアには順番があり、人によって合う道がちがいます。そして回復のゴールは、症状が消えることの、さらに先にあります。他者を思いやり、意味を見いだし、つながりを感じる——人が人らしくある理由を、最後に一緒に探索します。