第1部 脳を、探索する ― こころの傷と回復を考える3部作

こころが傷つく仕組みを探索する

脳のイメージ図

― 脳のなかで、何が起きているのか

わたしたちのこころは、脳のなかのいくつかのはたらきが組み合わさって動いています。危険を知らせるはたらき、それをなだめるはたらき、身体の声を届けるはたらき、思い出を整理するはたらき。
この第1部では、まずその4つのはたらきをひとつずつご紹介し、最後に「つらい出来事が起きたとき、脳では何が起きるのか」までを、図とともにたどっていきます。

2026/7/7

第 1 章 はじめになぜ、脳の話から始めるのか

「どうして自分は、こんなに動揺してしまうのだろう」「なぜ、あんな昔のことが、いまも身体をこわばらせるのだろう」。そう感じたことは、ありませんか。

その問いの答えの多くは、あなたの性格の弱さでも、努力の足りなさでもなく、脳のしくみのなかにあります。脳がどんなふうに危険を感じ、どんなふうに落ち着きを取り戻すのか。それを知ることは、自分を責める代わりに、自分を理解するための、やさしい地図を手に入れることです。

正しく知ることは、自分を大切にすることの、はじめの一歩です。この地図があれば、次の第2部で「では、どうすれば回復するのか」という話に進んだとき、ひとつひとつのケアが「なぜ効くのか」を、あなた自身の言葉で納得できるようになります。

では、これから見ていく4つのはたらきを、さきに紹介しておきます。気になったところへ、いつでも戻ってきてください。

― 脳の、4つのはたらき ―

第 2 章 4つのはたらきは、どうつながっているかある一瞬に起きている、こころの連携プレー

脳のなかの4つのはたらきは、ふだんバラバラに動いているわけではありません。ほんの一瞬の出来事のなかで、まるでリレーのように、つぎつぎと働きかけ合っています。まずは、身近な場面を例に、その連携を見てみましょう。

たとえば、こんな場面 静かな部屋でひとり作業をしていたら、後ろから急に肩を叩かれた——想像してみてください。心臓がドキッとして、一瞬「びくっ」と身体が動く。そのあとすぐ、「ああ、驚かせてごめん」という声で、それが家族や友人だと分かり、ほっと力が抜ける。ほんの数秒の出来事ですが、この間に、脳のなかでは4つのはたらきが、つぎつぎとバトンを渡し合っています。
0.1秒後
扁桃体が、まず反応する

肩に触れられた感覚が、言葉で考えるよりずっと早く、扁桃体に届きます。「これは何だろう」と考える前に、「危険かもしれない」という信号が、瞬時に出されます。心臓がドキッとするのは、この信号のあらわれです。

数秒後
島皮質が、身体の変化を伝える

心拍が上がった、身体がこわばった——そうした身体の変化を、島皮質が受けとり、こころに「いま、こんな感じだよ」と伝えます。この段階では、まだ「驚き」や「不安」として、ぼんやりと感じられているだけです。

ほぼ同時に
前頭葉が、状況を見きわめる

「振り返って、顔を見る」「声を聞く」——前頭葉が、いま入ってきた情報を使って、状況を判断します。「知っている声だ」「危険ではない」と分かった瞬間、なだめるはたらきが動き出し、扁桃体の警報を落ち着かせにかかります。

その後
海馬が、出来事を記憶として整理する

「さっき、後ろから声をかけられて驚いた」という出来事に、「いつ・どこで」という情報が結びつけられ、記憶として整理されます。これでこの出来事は、「いま起きていること」から「少し前に起きた、もう終わったこと」へと、位置づけが変わります。

この連携が、こころの安定をつくっている

危険を知らせ(扁桃体)、身体の変化を伝え(島皮質)、状況を見きわめてなだめ(前頭葉)、出来事として整理する(海馬)。この4つが、たった数秒のあいだに、みごとな連携プレーをこなしているのです。ふだん、わたしたちがこの過程を意識することはほとんどありません。それだけ、このチームワークが、うまく機能しているということでもあります。

けれど、この連携のどこか一か所が乱れると、こころの動きは大きく変わってしまいます。たとえば、前頭葉が「安全だ」と伝える前に、扁桃体の警報だけが鳴りつづけたら——。あるいは、海馬がうまく整理できず、その出来事が「終わったこと」にならないまま残ってしまったら——。第4章で見ていく「傷つき」とは、まさにこうした連携の乱れのことなのです。

こころの動きは、たったひとつの部分だけで決まるものではありません。いくつかのはたらきが連携し合う、その関係性そのものが、わたしたちのこころをかたちづくっています。

まずは全体の見取り図。脳を、顔を左に向けて縦にスパッと切った断面です。

脳幹 ← 顔の側(前) 後ろ → 前頭葉 (おでこの内側) 島皮質 (外からは隠れた深部) 側頭葉の内側 扁桃体 海馬
扁桃体=警報 前頭葉=ブレーキ 島皮質=身体の声 海馬=記憶

※ 位置関係を分かりやすく示した模式図です。実際の島皮質は、この図よりもさらに深く折りたたまれた場所にあり、前頭葉の各部位も断面図一枚では表しきれない複雑な位置関係にあります。扁桃体と海馬は左右の側頭葉に、島皮質は深部に隠れています。点線は扁桃体と前頭葉をつなぐ通り道(第4章で登場します)。厳密な脳の構造については、成書や専門的な資料をご参照ください。

第 3 章 脳の4つのはたらき① 扁桃体 ― 危険を知らせる、はたらき

危険を知らせる、こころの警報システム

扁桃体 へんとうたい / Amygdala

はたらき:「危険かどうか」を、考えるより先に、一瞬で判断する

扁桃体は、アーモンドくらいの小さな部分で、左右の側頭葉(こめかみの奥)にひとつずつあります。そのはたらきは、こころの警報システムのようなもの。目や耳から入ってきた情報を、言葉で考えるよりずっと早く、「安全か、危険か」で仕分けることです。

道で棒を見て「ヘビだ!」と飛びのいたあと、「なんだ、枝か」と気づく——あの一瞬の飛びのきを生み出しているのが、扁桃体のはたらきです。考えるより早く身を守れるように、あえて「先走る」ようにできています。とても優れた、危険察知のしくみなのです。

このはたらきがあるおかげで、わたしたちは危険から素早く身を守れます。問題が起きるのは、このしくみが「敏感になりすぎた」とき。その話は、第4章でくわしく触れます。

② 前頭葉 ― なだめる、3つのはたらき

鳴りすぎる警報を、しずめるはたらき

前頭葉 ぜんとうよう / Prefrontal cortex

はたらき:扁桃体の警報を受けとめ、なだめる方向に整える

前頭葉は、おでこのすぐ内側にある、脳のいちばん「人間らしい」部分です。考える、我慢する、先を見通す、相手の気持ちを想像する——そうしたはたらきを担っています。

警報のはたらき(扁桃体)が高まり、身体がアクセルを踏んだような状態になると、なだめるはたらき(前頭葉)が働いて、その高ぶりを落ち着かせようとします。このアクセルとブレーキの綱引きこそ、こころの安定の土台です。

そして大切なのは、このなだめるはたらきが1種類ではないということ。役割の違う3つのはたらきが、それぞれのやり方で警報をなだめています。

① 気づくはたらき dACC・前帯状皮質

「あれ、いま自分は動揺しているな」と、心の状態の変化にいち早く気づく機能。気づけて初めて、対処が始まります。

② 鎮めるはたらき vmPFC・腹内側前頭前野

「この状況は、ほんとうは安全だ」と評価しなおし、扁桃体の警報を直接しずめる機能。落ち着きを取り戻す中心です。

③ 意味を見いだすはたらき dmPFC・背内側前頭前野

「あの出来事には、こういう意味があったのかもしれない」と、自分や他者の気持ちを理解し、経験を物語としてまとめる機能。

ひとことで言うと ①が気づき、②が鎮まり、③が意味づけ。この3つのはたらきがそろって、はじめて「頭で考えて、気持ちを立て直す」ことができるのです。

※ 実際には、これらの部位はそれぞれ複数のはたらきを同時に担っており、ここまできれいに役割が分かれているわけではありません。ここでは、こころの動きをイメージしやすくするために、それぞれの主なはたらきを取り出してご紹介しています。

③ 島皮質 ― 身体の声を伝える、はたらき

身体とこころを、つなぐはたらき

島皮質 とうひしつ / Insula

はたらき:心臓の鼓動やお腹の感じなど「身体の声」を、こころに伝える

島皮質は、脳の左右、前頭葉と側頭葉に挟まれた奥に、隠れるようにある部分です。そのはたらきは、身体の内側からの信号——心臓のドキドキ、お腹のキュッ、息のつまり——を受けとり、こころが感じ取れるかたちに変えて伝えることです。

ことばの補足 内受容感覚(ないじゅようかんかく)とは、身体の内側から来る感覚のことです。外の景色や音を感じる力(外受容感覚)に対して、こちらは「自分の内側を感じる力」。緊張でお腹が痛くなる、安心で肩の力がぬける——そうした気づきは、島皮質のはたらきによります。

このはたらきがあるから、わたしたちは「なんだか胸がざわつく=不安なのかも」と、身体の声を手がかりに自分の気持ちを知ることができます。身体とこころをつなぐ、大切な架け橋なのです。

けれど、この架け橋のはたらきが乱れると、身体の声が届きにくくなったり、逆に「危険信号」としてばかり届いたりします。それが、のちに触れる「解離」という体験と深くつながっています。

④ 海馬 ― 思い出を整理する、はたらき

記憶に、日付と場所を結びつけるはたらき

海馬 かいば / Hippocampus

はたらき:出来事に「いつ・どこで」の情報をつけ、思い出として整理する

海馬は、タツノオトシゴのような形をした部分で、扁桃体のすぐ後ろにあります(海馬という名前も、タツノオトシゴのラテン語から来ています)。そのはたらきは、日々の出来事に「いつ・どこで起きたか」という情報を結びつけ、きちんと整理して記憶として定着させることです。

このはたらきがあるおかげで、つらい経験も「あれは過去の、あの日の出来事だった」と、時間の流れのなかに位置づけられます。「過去」と「いま」を区別する——これが、海馬のとても大切なはたらきです。

もしこの整理が追いつかなくなると、記憶が整理されないまま、「いま、ここで起きていること」のように生々しく残ってしまいます。トラウマの記憶が時間を超えて襲ってくるように感じられる背景には、この海馬のはたらきの乱れがあります。

⑤ まとめ ― 4つのはたらきがそろって、こころは動いている

これで、主な4つのはたらきがそろいました。危険を知らせる扁桃体、それをなだめる3つのはたらきをもつ前頭葉、身体の声を伝える島皮質、思い出を整理する海馬

ふだん、この4つのはたらきは、絶妙なバランスで組み合わさっています。警報が鳴れば、なだめる。身体の声を受けとりながら、思い出を整理する。その連携があるからこそ、わたしたちは荒波のなかでも、なんとか舟を漕いでいけるのです。

では、そのチームワークが、つらい出来事によって乱れてしまうと、何が起きるのでしょう。ここからは、いよいよ「脳が傷つく」とは、どういうことなのかを見ていきます。

第 4 章 こころが傷つく仕組みそして、脳は傷つく

ここまで、4つのはたらきについて見てきました。ここからは、つらい出来事が起きたとき、そのそれぞれに何が起きるのかを見ていきます。はじめに、ひとつだけ伝えておきたいことがあります。これから語る「脳の傷」は、あなたが弱かったからでも、壊れてしまったからでもありません。むしろ逆です。それは、あなたの脳が、過酷な状況のなかで、けんめいにあなたを守ろうとした証なのです。

1根っこにあるもの ― ストレスホルモンの、長すぎた残業

脳の傷の物語は、ある一本の「軸」から始まります。脳とからだをつなぐ、ストレス反応の指令系統です。

ことばの補足 HPA軸(エイチ・ピー・エー軸)とは、脳の奥から副腎(腎臓の上の小さな臓器)へとつながる、指令のリレー通路です。危険を感じると、この通路を通って「コルチゾール」というストレスホルモンが出ます。コルチゾールは、いざというときに身を守る「非常用エネルギー」です。

コルチゾールそのものは、敵ではありません。短い時間なら、わたしたちを危機から守ってくれる、たのもしい味方です。問題は、その非常事態が終わらないときに起こります。長く続いたコルチゾールの過剰は、新しい神経細胞の誕生をさまたげ、神経の枝ぶりをやせ細らせていくことが分かっています。

ことばの補足 アロスタティック負荷とは、「逆境に適応しつづけるために、からだが払いつづけた代償」のこと。嵐のなかで踏ん張りつづけた木が、その姿勢のまま固まってしまうように——守るための力が、長く使われすぎると、こんどはその木自身を疲れさせてしまうのです。

ですから、脳に変化が起きることは、弱さの印ではありません。それは、終わらない非常事態のなかで、ずっと警報を鳴らし、走りつづけてくれた人の、疲れた肩のようなもの。そして、肩の力は、あとからほどいていくことができます。

同じようなつらい経験をしても、その影響のあらわれ方には、大きな個人差があります。もともとの気質、そばにいてくれる人の存在、それまでに積み重ねてきた経験など、さまざまな要因が関わっています。ですから、「同じ出来事なのに、自分だけつらく感じてしまう」と、比べて責める必要はありません。

2ひとつの根から、四つの枝へ

この「終わらない非常事態」は、さきほど見た4つのはたらきに、それぞれ違うかたちで影を落とします。

根:HPA軸の乱れ(ストレスホルモンの暴走)

ひとつの根から、4つの枝へと影が広がります

① 警報 鳴りやまない ② ブレーキ 効きにくい ③ 身体の声 遠ざかる ④ 記憶 時間が混ざる

扁桃体

鳴りやまない警報

危険を知らせるはたらきが敏感になりすぎ、危険がなくても警報が鳴りつづけるような状態になります。安全な場所にいても気が休まらない過覚醒や、フラッシュバックの背景にあるのが、この扁桃体の過活動です。

前頭葉と、その配線

効きにくくなるブレーキ

なだめ役の前頭葉のはたらきが弱まります。しかも傷つくのはブレーキ本体だけではありません。ブレーキと警報をつなぐケーブル(下でくわしく)も、ゆるんでしまうのです。

島皮質

遠ざかる身体の声

身体の声を伝えるはたらきが混乱し、内側の感覚が「危険信号」としてしか届かなくなることがあります。すると人は、身体からそっと自分を切り離して身を守ろうとします。これが「解離」という体験の背景です。

海馬

混ざってしまう時間

記憶を整理するはたらきがつかれ、つらい記憶に「いつ・どこで」の情報が結びつけられないまま残ります。すると過去の出来事が「いま、ここ」のように生々しくよみがえってしまうのです。

3つなぐケーブルのこと ― 鉤状束

6-2でふれた「ケーブル」について、もう少しだけ。前頭葉の一部(②鎮めるブレーキ=vmPFC)は、鉤状束(こうじょうそく)という神経線維の束を通って、扁桃体の警報をなだめています。断面図で描いた点線が、この通り道です。トラウマは、この通り道そのものの整いを乱してしまうことが報告されています。

つまり、こころの傷とは「アクセルが強すぎる」だけでも、「ブレーキが弱すぎる」だけでもありません。アクセルとブレーキのあいだをつなぐ線が、うまく信号を伝えられなくなっている——そんな状態でもあるのです。

4脳は、「いつ」「何を」経験したかを、かたちで覚えている

近年の研究が明らかにした、大切な視点があります。いつ傷ついたか、そして何を経験したかによって、脳の傷つく場所が変わる、というものです。

ことばの補足 感受性期(かんじゅせいき)とは、脳の各部分にある「この時期の経験がもっとも深く刻まれる」という、特別に敏感な年齢の窓のこと。たとえば海馬は3〜5歳と11〜13歳ごろ、脳をつなぐ脳梁は9〜10歳ごろ、前頭の皮質は14〜16歳ごろに、影響を受けやすいと報告されています。

さらに、経験の種類によっても、刻まれる場所が違います。暴言を受けつづけた人では音を聴く領域が、家庭内の暴力を目にしつづけた人では映像を見る領域が、というように、その人が「実際に何にさらされたか」を処理する脳の通り道が、まるでそこを狙うように影響を受けるのです。

脳は、あなたの身に起きたことを、たんなる「記憶」としてだけでなく、その形のなかに、静かに記している。 だからこそ、あなたの反応には、いつも理由があります。理解しにくい反応も、不可解な身体の反応も、その人の歴史の地図のうえでは、ちゃんと意味のある一点なのです。

5けれど、これは「破壊」ではなく、「変化」である

ここまで、痛みに触れる話が続きました。けれど、この章でいちばん伝えたいのは、最後のこの一点です。

これらの変化の多くは、もとに戻りうるものだということ。海馬の研究では、強いストレスによる記憶への影響が「可逆的」——つまり回復しうるかたちで起こることが示されています。やせ細った神経の枝は、永遠に失われるのではなく、「作り変えられる」のです。脳の奥のある場所では、大人になってからも新しい神経細胞が生まれつづけ、つながりは編みなおされていきます。

脳は、傷ついたあとも、変わりつづける力を手放しません。枝はまた伸び、線はまた結びなおされていきます。あなたの過去は、あなたの出発点ではあっても、行き先ではないのです。

「破壊」ではなく「変化」。この一語のちがいが、これからの旅の、いちばん大切な地図になります。傷ついたのなら、変わることもできる。脳がもっている、その「変わりつづける力」こそが——次の第2部で語る、回復の物語の主人公です。

参考文献・出典

※ 本記事は、上記の学術的知見をもとに、一般の読者に向けてやさしく再構成したものです。脳の図は位置関係を分かりやすく示した模式図であり、正確な解剖図ではありません。

お読みになる、あなたへ

この記事は、こころと脳のしくみを知るための、一般的な情報をお届けするものです。特定の診断やケアの方針に代わるものではありません。読み進めるなかで、つらい記憶がよみがえったり、気持ちが大きく揺れたりすることがあれば、どうか無理をせず、いったんページを閉じて、安心できる呼吸に戻ってください。もし、いま強いつらさのなかにいらっしゃるなら、どうか、ひとりで抱えこまないでください。信頼できる人や専門の窓口に、そっと声をかけてみてください。わたしたちも、同伴者のひとりとして、いつでもここにいます。