1896年、シグムント・フロイトはウィーンの医学会で一つの仮説を発表した。 ヒステリーの症状の根底には、幼児期における近親者からの性的な侵害の記憶がある——という仮説だった。 翌年、彼はその説を自ら取り下げた。
それから125年後、WHO国際疾病分類の第11改訂版(ICD-11)に「複雑性PTSD」が正式に採用された。
この二つの出来事の間に、何があったのか。そしてこの歴史は、トラウマを抱えて生きる人々の回復のプロセスと、なぜ深く響き合うのか。 本稿はその問いを辿る試みである。
ひとつ、最初にお伝えしたいことがある。
本稿はフロイトの時代の「性的虐待」を起点とした歴史を辿るが、現在の複雑性PTSDの原因はそれに限らない。身体的虐待、情緒的ネグレクト、慢性的な否定や無視、DVのある家庭環境、長期的ないじめ、難民・戦争体験——反復的・長期的な対人間ストレスであれば、その形態を問わず複雑性PTSDの背景となりうる。
歴史の出発点が性的虐待であったのは、フロイトが出会った患者たちが実際にその被害を語ったからだ。複雑性PTSDはもっと広く、そしてもっと多くの人に関わる概念である。
フロイトが「見たもの」——1896年の発見
19世紀末のウィーン。フロイトは内科医ヨーゼフ・ブロイアーとの共同研究を経て、独自の臨床観察を深めていた。 彼のもとを訪れる患者のほとんどは女性であり、その多くが「ヒステリー」と呼ばれる症状——麻痺、痙攣、記憶の空白、身体の不可解な感覚——を抱えていた。
当時の精神医学は、こうした症状を「女性の神経質な気質」や「子宮の不調」に帰していた。 しかしフロイトは、患者たちの語りに耳を傾け続けた。そして一つのパターンを見出した。
ヒステリーの症状の根底には、幼児期に経験した性的な出来事の記憶が存在する。 その出来事は多くの場合、父親・兄・家庭教師など、近しい大人によって引き起こされたものである。 ——フロイト「ヒステリーの病因について」1896年
これが後に「誘惑説(Verführungstheorie)」と呼ばれる仮説である。 フロイトはこの論文を、ウィーン精神医学・神経学会で発表した。
反応は冷たかった。クラフト=エービングをはじめとする当時の権威たちは、この発表を「科学的おとぎ話」と評した。 上流階級の父親が、自らの娘に性的な侵害を行うなどあり得ない——という社会的な確信が、そこには厳然としてあった。
フロイトは孤立した。しかし、扉は確かに開きかけていた。
扉が閉じられた——1897年の撤回
発表からわずか1年後の1897年、フロイトは親友フリースへの手紙の中で、自らの仮説を否定した。
もはや誘惑説を信じない。 ——フロイト、フリース宛書簡 1897年9月21日
撤回の理由としてフロイトが挙げたのは、いくつかの論点だった。 分析が成功裏に完結しないこと、無意識は虚偽と現実を区別しないこと、そして—— フロイトは書簡の中で、「すべての症例で近しい大人が病因として指摘されることになる」という問題を挙げた。誘惑説を維持すれば、子どもの周囲にいる大人——家族であれ、知人であれ、信頼を持つ立場にある者であれ——が広く問われることになる。それは当時の社会秩序そのものへの挑戦を意味した。加えてフロイト研究者の多くは、彼の父親ヤコブが前年に亡くなっていたことも、この撤回と無関係ではないと指摘している。
この撤回を機に、フロイトの理論は大きく方向を変えた。 外部の現実(実際に起きた出来事)から、内部の幻想(子どもが持つ性的欲望と葛藤)へ。 そこから生まれたのが、エディプスコンプレックス、幼児性欲論、リビドー理論という精神分析の根幹をなす概念群だった。
理論的転換の意味
この転換は何を意味したか。
「患者が語ること」を、現実に起きた出来事の記憶としてではなく、内的な幻想の表現として聴く——という姿勢の確立である。 精神分析における「中立性」と「転移の解釈」という技法はここに源泉を持つ。
防衛機制の概念など、この理論体系が人間の内的世界の理解に貢献した部分は確かにある。 しかし同時に、精神医学は「何がその人に起きたか」より「その人の内部に何があるか」を問う方向へと、決定的に傾いた。
100年の沈黙と、繰り返された否認
フロイトの撤回以後、トラウマの現実性は精神医学の主流から姿を消した。 しかし現実は、繰り返し姿を現そうとした。そのたびに、否認された。
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1914–18年
砲弾ショック(Shell Shock) 第一次世界大戦の前線で、兵士たちに震え・解離・記憶の断絶が多発した。 しかし戦後、軍と社会はこれを「臆病者の症状」「意志の弱さ」として否定した。 研究者たちは社会的圧力の前に沈黙した。
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1939–45年
ホロコースト生存者の症状 強制収容所を生き延びた人々に、広範な心理的後遺症が観察された。 精神医学の主流はこれを「神経症的素因」——もともと弱い人の問題——として処理しようとした。 外部の現実ではなく、個人の内部に原因を求めるフロイト以来の傾向が、ここにも現れた。
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1970年代
ベトナム帰還兵と反戦運動 反戦運動と結びついた形で、帰還兵の症状が社会問題として可視化された。 活動家と精神科医の連携により、初めて「外部の現実がもたらすトラウマ反応」が公的な議論の場に上がった。
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1980年
DSM-Ⅲ:PTSDの正式採用 アメリカ精神医学会の診断基準に「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」が初めて登場した。 フロイトの撤回から83年後のことである。 ただしこの診断は、基本的に単回性・成人・外部的なトラウマを想定したものだった。
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1992年
ジュディス・ハーマン「複雑性PTSD」の提唱 精神科医ジュディス・ハーマンは著書『心的外傷と回復』の中で、PTSDでは捉えきれない症状群——感情調節の慢性的困難、自己感の歪み、対人関係の反復的障害——を「複雑性PTSD」として概念化した。 同時に彼女は、フロイトの撤回を歴史的に検証し、「患者の語りを幻想に変換した」という精神分析の根本的な問題を指摘した。
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1994年
DSM-IV:採用されなかった複雑性PTSD ハーマンらはフィールドトライアルを行い、DSM-IVへの採用を求めた。 しかし採用されなかった。「PTSDで十分カバーできる」という保守派の主張と、虐待の現実を公式に認めることへの社会的抵抗が、背景にあった。 「今後の研究のための基準」として巻末付録に「DESNOS」という仮称で記載されるにとどまった。
パターンが見える。トラウマの現実は、繰り返し姿を現そうとした。 そしてそのたびに、社会的・制度的な力によって否認された。 この繰り返しは、複雑性トラウマを抱えた個人の内部で起きることと、驚くほど似ている。
125年後の扉——ICD-11が意味すること
2018年、世界保健機関(WHO)の国際疾病分類第11改訂版(ICD-11)に「複雑性PTSD(6B41)」が独立した診断として採用された。 発効は2022年。フロイトが誘惑説を撤回してから、125年が経っていた。
カテゴリーからディメンションへ
ICD-11のもう一つの大きな変化は、パーソナリティ障害の診断がカテゴリーモデルからディメンション(次元)モデルへと移行したことである。
カテゴリー診断は「ある/なし」の二値で人を分類する。境界性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、といった「箱」に当てはめる方式だ。 しかしこのモデルは、同じ診断名でも患者の実態が大きく異なること、「人格の障害」という固定的な烙印を生むこと、複数診断の「並立」が当然になり単一診断の意味が薄れることなど、多くの限界を抱えていた。
ディメンションモデルは、「何の病気か」ではなく「どのような程度と様式の組み合わせか」でその人を記述する。 これは本質的に、「人をカテゴリーに当てはめる」から「その人の固有の布置を記述する」への転換である。
複雑性PTSDが採用された意味
ICD-11における複雑性PTSDは、通常のPTSDの中核症状に加え、「自己組織化の障害(Disturbances in Self-Organization: DSO)」という三つの次元を定義している。
① 感情調節困難(Affective dysregulation)——感情の波を制御することの慢性的な難しさ
② 否定的自己概念(Negative self-concept)——深い恥の感覚、自己の価値の否定
③ 対人関係障害(Disturbances in relationships)——親密さへの希求と恐怖の同時存在
これらの症状は、長期にわたる反復的な対人間トラウマ——特に幼少期の虐待・ネグレクト・家庭内暴力——への適応として理解される。
「何の病気か」ではなく「何がその人に起きたか」——この問いへの転換が、ここに凝縮されている。
そしてこの変化は、パーソナリティ障害のディメンション化と同じ方向を向いている。 両者は同じ改訂作業の中で、同時に起きた。これは偶然ではないと思う。
そして、もう一つの扉
ここで触れておきたいことがある。ICD-11が扉を開けた一方で、アメリカ精神医学会のDSM-5-TRは、複雑性PTSDをいまだ独立した診断として採用していない。複雑性PTSDが「ある」とする診断体系(ICD-11)と、「ない」とする体系(DSM-5-TR)が、現在も並存している。
パーソナリティ障害についても同様で、DSMはディメンション・モデル(AMPD)をすでに用意しながら、それを本体ではなく「今後の研究のための代替モデル」という控えの位置に留めている。
しかし、流れは定まりつつある。DSM-IVの策定責任者であり、むしろディメンション化に慎重だったアレン・フランセス自身が、こう述べている。
パーソナリティ障害のディメンション・アプローチへの移行は不可避である。問題は、それが起こるかどうかではなく、いつ、どのような形で起こるかだ。 ——アレン・フランセス(DSM-IVタスクフォース議長)
ICD-11が先に扉を開けた。DSMはまだその扉の前に立っている。だが、向かう先は同じである。
回復の構造は、歴史の構造と同じだ
この125年の歴史を振り返ったとき、一つのパターンが見えてくる。
| 精神医学の歴史的プロセス | 複雑性トラウマからの回復プロセス |
|---|---|
| 現実の否認(誘惑説の撤回) | 解離・記憶の封印 |
| 症状の内因化(「幻想」への変換) | 「私がおかしい」という自己帰責 |
| 社会的沈黙の継続 | 語れなかった長い時間 |
| 証言の回復(ハーマンの臨床研究) | 「あれは本当にあった」という確信の回復 |
| ICD-11での公式承認 | 体験が社会的・関係的に承認される体験 |
この対応は偶然ではない。 精神医学という制度が「トラウマの現実を見ることに耐えられるかどうか」の歴史は、 個人が「自らに起きたことを現実として見ることに耐えられるかどうか」の歴史と、 同じ構造を持っている。
……私が説明出来ないから、あなたが理解できないのではありません。
あなたが理解出来ないから、私が説明出来ないのです。 ——エリ・ヴィーゼル(1966) アウシュヴィッツ強制収容所のサバイバー、ノーベル平和賞受賞者
(ナラティブ・エクスポージャー・セラピー/金剛出版 冒頭に掲げられた言葉)
「あれは本当にあった」という回復
ハーマンが指摘したように、トラウマからの回復において最も根本的な一歩は、 「自分の体験の現実性を回復する」ことである。
幼少期の虐待を「自分の問題」「自分の弱さ」として内因化してきた人が、 「それは外から来たものだった」と理解し直す過程—— これはまさに、フロイトが1897年に行った変換を、逆方向に辿ることだ。
「私がおかしいのではない。おかしなことが、私に起きたのだ」
この認識の転換が、DSOの「否定的自己概念」の回復に直結する。そしてそれは、外部から与えられる診断名ではなく、安全な関係の中で少しずつ育まれていくものだ。
ディメンション診断と「その人の歴史」
ディメンション診断への転換は、臨床の現場においても大きな意味を持つ。
「あなたは境界性パーソナリティ障害です」という診断は、 その人の状態を「人格の歪み」として固定化する。 しかし「あなたはこのような苦しみの様式を持ち、それはこのような体験の歴史から形成された」という記述は、 変化の可能性と、体験の理解可能性を同時に含む。
診断が「何の病気か」から「何がその人に起きたか、そしてその人はどのように生き延びてきたか」へと移行するとき、 治療関係の質も変わる。 支援者は、病理を修正しようとする専門家ではなく、その人の生存の歴史を共に理解しようとする同伴者になる。