2026/11/4

ぬくもりというケア ― 人は、ミルクのみにて生きるにあらず

ハーロウの愛着研究から、セルフ・コンパッションへ
― ケアは、食べ物と同じくらい、生きるために必要なもの

布の母にしがみつく子ザルと、哺乳瓶のついた針金の母のイラスト
布の母ミルクはない。でも、あたたかい。
針金の母ミルクはある。でも、冷たい。

お腹を満たしてくれるけれど、冷たくて硬い母。
ミルクはくれないけれど、やわらかくて、あたたかい母。

生まれたばかりの子ザルは、どちらにしがみついたのでしょうか。

そして、あなたの中にいる小さな子どもは、どちらに駆け寄りたかったでしょうか。

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次の記事への前置きです

このブログは、次にお届けするセルフ・コンパッションの記事の前置きです。「人には、そもそも何が必要なのか」を、先に確かめておきます。

→ 関連記事「孤独という、最後の扉」を読む

Chapter 1ミルクより、ぬくもり ― ハーロウの代理母実験

心理学の教科書に、必ずと言っていいほど登場する実験があります。1950年代、アメリカの心理学者ハリー・ハーロウが、アカゲザルの赤ちゃんを使って行った「代理母実験」です。

当時の常識は、「赤ちゃんが母親を慕うのは、ミルクをくれるから」というものでした。食べ物をくれる相手に懐く。ごく自然な考え方に思えます。

ハーロウは、生まれてまもない子ザルに、二種類の「母」を用意しました。ひとつは、針金でできた母。もうひとつは、やわらかなタオル地でくるんだ母です。針金の母にだけ哺乳瓶をつけた子ザルと、布の母にだけ哺乳瓶をつけた子ザルに分けて、その様子を観察しました。

結果は、とても印象的なものでした。子ザルは、どちらの場合も、ほとんどの時間を布の母にしがみついて過ごしたのです。針金の母にミルクがあるときでさえ、飲むときだけ訪れて、すぐに布の母のもとへ戻っていきました。

さらに、見慣れないものや怖いものが近づくと、子ザルはミルクがどちらの母にあるかに関わらず、布の母に駆け寄りました。そして、しがみついて落ち着くと、布の母を足場にして、少しずつまわりを探索しはじめたのです。

針金の母布の母
触れた感じ冷たく、硬いやわらかく、あたたかい
子ザルの過ごし方ミルクを飲むときだけ訪れるほとんどの時間、しがみついて過ごす
怖いとき向かわなかった駆け寄って、しがみついた
安心したあと―足場にして、探索へ出ていった
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この研究について、知っておいてほしいこと

ハーロウの実験は、子ザルに大きな苦痛を与えるものでした。とくに、長く隔離して育てた実験は、動物福祉の面から強い批判を受けており、今日では同じ方法は許されません。また、サルの研究を、人間にそのまま当てはめることはできません。ここでは「人にも通じることを示唆する研究」として、慎重に受けとめていきます。

Chapter 2ケアは、食べ物と同じくらい必要なもの

ハーロウの実験が示したのは、とてもシンプルなことでした。生きものにとって、「触れて、安心できること」は、栄養と同じくらい、必要なものだということです。

ケアは、食べ物と同じくらい、
生きるために必要なもの ― ネフ『セルフ・コンパッション』が、ハーロウの実験から読み取ったこと

人の赤ちゃんも、同じではないでしょうか。お腹が満たされるだけでは足りず、抱きしめられ、あやされ、「ここにいていいよ」と全身で伝えてもらうことで、安心して世界へ出ていく力が育ちます。

もうひとつ、大切なことがあります。母ザルのいない環境で育った子ザルには、群れの仲間とのやりとりに難しさが残りました。ぬくもりは、必要なもの。けれど、それだけで十分とは言えません。仲間との関わりの中で、はじめて育っていくものがあるのです。

安全基地と、心の設計図

ハーロウと同じ時代に、イギリスの精神科医ジョン・ボウルビィは、この考え方を人間の親子へと進めました。

子どもは、怖いときや心細いときに、親に慰められ、支えてもらう経験を重ねることで、「この世界は安全で、必要なときには頼れる人がいる」と感じるようになります。そうして親を「安全基地」にして、安心して外の世界を探索できるようになります。布の母を足場に、探索へ出ていった子ザルと、同じ姿です。

反対に、親がいつも支えになれなかったり、冷たくあしらったり、拒んだりすると、子どもは「世界は安全ではなく、人には頼れない」と学びやすくなります。探索する自信は損なわれやすく、その傾向は、大人になっても続くことがあります。

こうして心の奥にできあがるのが、「自分はどういう人間で、他者に何を期待できるのか」を、無意識に描いた心の設計図です(専門用語では「内的作業モデル」と呼ばれます)。ネフの研究では、不安定な愛着を持つ人ほど、自分への思いやり、つまりセルフ・コンパッションのレベルが低いことが示されています。自分をどう扱うかは、受け取ってきたケアの記憶と、つながっているのです。

「世話をする」という、もうひとつの本能

ストレスへの反応というと、「闘う」か「逃げる」かが思い浮かびます。けれど、ネフは、人の生存は、闘争と逃走の本能だけでなく、「面倒を見て、助けになろうとする」本能にも左右される、と述べています。

脅威を感じたときに子を守ろうとする動物ほど、遺伝子を次の世代へつなぎやすい。ケアをする行動には、生き延びるための強い働きがあるのです。そのため、すべての哺乳類は、「愛着システム」を備えて生まれてきます。ケアする者と子どもとの間に、強い情緒を生む一連の行動の仕組みです。

卵からかえった子をあまり世話しない爬虫類と違って、哺乳類は、子が食べ物と温かさと安全を確実に得られるよう、たくさんの時間とエネルギーを注ぎます。生まれたばかりの子は、自分ではケアができず、親を頼りに命をつなぐ。ケアを与える力も、受け取る力も、種が生き残るために、生まれつき備わったものなのです。

ケアを「受け取る」仕組みと、
ケアを「与える」仕組みは、
同じ土台の上にある。

これが、この記事でいちばんお伝えしたいことです。

Chapter 3受け取ったケアは、自分にも向けられる

ケアを受け取る仕組みと、与える仕組みが同じ土台の上にあり、しかも、私たちの脳は、他者だけでなく自分自身をもケアするように設計されている、とネフは述べています。ならば、こう考えることができます。幼い頃に受け取ったぬくもりは、やがて、誰かに向けるやさしさの土台になる。そして、同じ土台から、自分に向けるやさしさも育っていく。

布の母のぬくもりは、いつか、
あなた自身の手のぬくもりになる。
やわらかなタオル地のショールにくるまれ、目を閉じて自分をそっと抱きしめる人のイラスト

足りなかったと感じている方へ

「自分は、そのぬくもりを十分に受け取れなかった」と感じる方もいらっしゃるでしょう。ハーロウの研究を知って、「もう取り返しがつかないのではないか」と不安になった方もいるかもしれません。

けれど、ネフは、希望を語っています。幼い頃に形づくられた心の設計図は、固定されたものではなく、変えていくことができる。ケアをする力も、ケアを受け取る力も、人にもともと備わっているものだからです。

子どもの頃に不安定な愛着を持った人が、大人になってから、愛情豊かな人と出会ったり、支援者との安全な関わりを重ねたりする中で、少しずつ安心を取り戻していくことがあります。サルの研究でも、ハーロウとスオミの1971年の報告で、長く隔離されて育ったサルが、適切な関わりの機会を整えることで、程度の差はあれ、回復していく姿が示されています。ぬくもりを育て直す道は、閉ざされていないのです。

ただし、ネフは、変わることを「他者だけに頼る」難しさも指摘しています。関係は終わることがあり、支援者にも、頼りたい相手にも、それぞれの事情があるからです。だから、人との関わりを大切にしながら、自分自身を気づかい、受け入れていくことが、もうひとつの支えになります。自分のやさしさで、自分を包む。その積み重ねが、「助けはいつもここにある」という感覚を育てていきます。

ぬいぐるみから、群れへ。

千葉県の市川市動植物園に、パンチというニホンザルがいます。2025年7月に生まれ、母ザルが育てられず、人工哺育で育ちました。母親代わりは、「オランママ」と呼ばれるオランウータンのぬいぐるみです。2026年1月に群れでの暮らしがはじまってからは、オランママを抱きしめながら、少しずつ仲間との関わりを広げていきました。最近は、ほかのサルに近づいて毛づくろいをしたり、並んで座ったりする姿や、赤ちゃんザルと関わる「お兄ちゃん」のような姿も伝えられています。ぬいぐるみへの依存も、少しずつ減ってきたと報じられています。ぬくもりは、ぬいぐるみから、仲間へ。そして、さらに小さな命へ。ハーロウの実験が示したことを、いま私たちは、別のかたちで見ているのかもしれません。

💡
自分を、そっとハグする

ネフの『セルフ・コンパッション』には、「ハグの練習」が紹介されています。つらいとき、腕や顔をやさしくさすったり、体をそっと揺らしたりして、自分を温かくハグする。最初は少しばかばかしく思えるかもしれませんが、体は、赤ちゃんが母親の腕に抱かれたときのように、あたたかい接触に反応すると言われています。

大切なのは、ケアの気持ちが伝わる、やわらかな動きにすること。人目が気になるときは、両腕をさりげなく折って、自分を抱きしめるようにするだけでも。動かせないときは、自分をハグしている姿を心に思い描くだけでも構いません。くわしい進め方は、次の記事でお伝えします。

どうか、ひとりで抱えないでください。体に触れること自体がつらい方や、強い感情・つらい記憶が出てくるときは、無理に行わず、専門家とともに進めてください。

自分にケアを向けることは、「ひとりで完結する」ことではありません。ケアの土台は、誰かとの関わりの中でつくられ、これからも、誰かとの関わりの中で育っていきます。

おわりに ― ケアは、受け取るもの。そして、育てていくもの

ハーロウの子ザルは、ミルクよりも、ぬくもりを選びました。人もまた、食べ物と同じくらい、ケアを必要としています。

ケアは、受け取るものであり、やがて、人にも、自分にも向けられるようになるもの。次の記事では、その「自分にケアを向けること」、セルフ・コンパッションについて、くわしくお伝えします。

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二子玉川心理ケースワークオフィスでは、そうした日々の悩みから、幼い頃の傷つきに由来する生きづらさまで、幅広くお話を伺っています。

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参考文献

※本ブログは一般的な情報提供を目的としており、個別の診断・治療を行うものではありません。