2026/9/2

運命愛、再考

十年ほど前に、運命愛について書きました。自分に起きたことすべてを、自分が選び取ったものとして捉え直す。ニーチェの言葉と、中島義道先生の言葉をお借りした、短い文章です。今もこのサイトで一番読まれています。

ただ、あれを読んで深くうなずける方がいる一方で、どうしてもうなずけない方がいます。私は後者の顔を、何度も見てきました。

あれから十年が経ちました。私自身の考えも変わり、この言葉をめぐる状況にも、思いがけない変化がありました。もう一度、考え直してみます。先にお断りしておくと、答えは書きません。書けないからです。

Chapter 1この言葉が、届かないとき

災害で住む場所を失った方。病を告げられた方。大切な人を突然見送った方。

そういう方に向かって「それを愛しなさい」と言うことは、私にはできません。してはいけないと思っています。

起きたことそのものを、良かったと思う必要はありません。良かったことにする必要も、ありません。失われたものは、失われました。それを言葉でひっくり返そうとする試みは、慰めではなく、二度目の暴力になり得ます。

前を向けと言われても。
意味があったはずだと言われても。
——それでも、返してほしいのです。

仏教は、生老病死、そして愛別離苦と言いました。人の力ではどうにもならない苦しみが、この世にはある。二千五百年前から知られていたことです。

運命愛は、それを消す魔法ではありません。

では、あの言葉は何を言おうとしていたのか。ここからが本題です。

Chapter 2肯定するのは、出来事ではない

中島先生の文章に、私が長く立ち返ってきた一節があります。他人に押しつけられた苦痛の前で、人は脆く崩れる。けれど自分が選び取ったものであれば、たとえ苦痛であっても人は耐えられる。そういう趣旨の言葉です。

分かれ目は、出来事の大きさではありません。種類でもない。

その苦痛が、押しつけられたままなのか。自分の手に渡ったのか。そこだけです。

地震を選んだ人はいません。病を選んだ人も、理不尽な扱いを望んだ人も、どこにもいない。それらは最初から押しつけられたものです。

けれど、その後の日々をどう生きるかは、少しずつ、自分の手に取り戻していくことができます。

運命愛が求めているのは、
出来事への感謝ではありません。
その出来事への構えを、
誰かに委ねたままにしない、ということです。

極限を生きた人が、同じことを言っている

ここで、ひとりの人物に触れないわけにはいきません。

ヴィクトール・フランクル。精神科医であり、アウシュヴィッツの生還者です。収容所で、家族の多くを失いました。

彼が後年に語ったのが、悲劇的楽観主義という考え方です。痛み、罪、そして死。人間から取り去ることのできないこの三つを前にして、それでも人生に「然り」と言う姿勢のことを、彼はそう呼びました。逃れようのない苦しみに対して、どういう態度をとるか。その一点だけは、最後まで誰にも奪われない。彼はそう書いています。

フランクルは、この考えを、思想としてではなく、事実として生きた人です。アウシュヴィッツで、家族の多くを失いながら、それでもなお、態度だけは奪われないと、自らの身をもって確かめました。

だから、この人の言葉には重みがあります。

ただし、二つ、断っておかなければなりません。

ひとつ。フランクル自身が明言していることですが、避けられる苦しみは、避けるべきです。苦しみそのものに価値があるわけではありません。変えられる状況は、まず変える。態度の話は、そのあとです。この順番を逆にすると、ただの精神論になります。

もうひとつ。これは、本人が自分自身に向けて言えることであって、他人に向かって言えることではありません。「あなたの苦しみにも、きっと意味があるはずだ」と外から言った瞬間、それは励ましではなく、暴力に変わります。フランクルの言葉が強いのは、彼が自分に向かって言ったからです。

運命は、交渉できるのか

占星術研究家の鏡リュウジ氏と、臨床心理学者の東畑開人氏の対談を読みました。運命は決まっているという強い宿命論と、運命とは交渉できるという立場。その対比が語られていました。

人生には、動かせない部分が確かにあります。生まれる場所も、時代も、身体も、出会う出来事も、選べません。

それでも、交渉の余地はわずかに残されている。運命愛とは、その余地に手を伸ばすことなのだろうと考えています。

Chapter 3運命愛は、測れるのか

ここに、十年前には書けなかったことがあります。

この数年、運命愛は心理学の実証研究の対象になりました。ミシガン大学のエドワード・C・チャン氏らが、この百四十年前の哲学概念を、測定可能なものとして扱う一連の研究を発表しています。哲学の言葉が、統計の俎上に載せられたわけです。

結果のいくつかは、臨床の実感と重なります。

希死念慮との関連(2024年) 若年成人215名を対象にした研究では、運命愛の傾向が強い人ほど、生きることを手放したいという気持ちが低いという関連が示されました。注目すべきは、その間を媒介していたものです。「自分の人生に起きたことに、筋道が見える」という感覚と、「自分は取るに足らない存在ではない」という感覚。この二つでした。一方で「人生の目的」や「後悔」は、媒介していませんでした。

目的ではない、というところに、私は長く立ち止まりました。

目的を持て、と人はよく言います。けれどこの結果が示しているのは、目的よりも先に、自分の人生に筋道が見えること、そして自分がここにいてもいいと思えることのほうが効いている、という可能性です。

順番が、逆だったのかもしれません。

その後の研究(2025年) 成人160名を対象にした研究では、運命愛と心理的な適応との関連が、対処の仕方を経由して現れることが報告されています。また、運命愛がその後の状態を予測するかを追った縦断的な研究も発表されました。この分野は、今まさに動いている最中です。

ただし、ここは正直に書いておかなければなりません。

これらの研究は、数百人規模で、多くが米国の成人を対象にした自己報告によるものです。運命愛が原因で状態が良くなる、と証明されたわけではありません。もともと状態の良い人が、運命愛的な答え方をしやすいだけかもしれない。研究者たち自身、そう書いています。

そして、もっと本質的な問題があります。

これらの研究における運命愛の定義は、「人生の良いことも悪いことも、喜んで受け入れる肯定的な態度」というものです。ニーチェが書いた、あの峻厳な言葉とは、明らかに温度が違います。中島先生が、無理矢理にでも自分が選び取ったと考えてみろ、と書いたときの、あの切迫感もありません。

測れるようにするとは、角を落とすということです。

科学は、運命愛を証明しませんでした。
ただ、確かめられる形にまで、
薄めてみせただけかもしれません。

それでも、意味はあると思っています。少なくとも、これが単なる文学的な励ましではなく、人の生死に関わる何かを含んでいる、という見立てが、別の方角からも支持されはじめている。私はそう受け取りました。

もし今、生きることを手放したいという気持ちが、あなたの中にあるのなら。この記事を読み進めるより先に、どうか誰かに繋がってください。かかりつけの医療機関でも、お住まいの地域の相談窓口でも構いません。言葉にしにくければ、そのままでも構いません。

Chapter 4消そうとしない、という道

ここまで、西洋の言葉ばかりを並べてきました。けれど、これとよく似た地点に、日本人が、まったく別の道から辿り着いています。

森田正馬。大正時代に、森田療法を創始した精神科医です。

森田が見抜いたのは、こういうことでした。不安や症状を消そうとする努力そのものが、かえってそれを大きくしてしまう。意識を向ければ向けるほど、感じやすくなる。感じやすくなるから、また意識が向く。この循環に、人は閉じ込められる。

だから森田は、逆のことを言いました。

あるがまま。不安は不安のまま、そこに置いておく。消そうとせず、抱えたまま、今やるべきことに手を動かす。気分が整うのを待ってから動くのではなく、気分は気分として脇に置き、目的のほうを先に立てる。

治すために、治そうとするのをやめる。

この逆説は、運命愛と、驚くほど近い場所にあります。

運命愛が、出来事を消そうとしないこと。あるがままが、感情を消そうとしないこと。どちらも、戦うのをやめることによって、かえって前に進む力が戻ってくるという、同じ構造を持っています。

ただし、これも正直に書いておきます。森田療法は、もともと不安をめぐる症状のために作られたものであって、トラウマのために作られたものではありません。そのまま当てはめることはできません。強い記憶を抱えている方が、無理に「あるがまま」を実践しようとすると、かえって飲み込まれることがあります。

それでも、ひとつだけ、そのまま受け取れるものがあると思っています。

消さなくていい、という一点です。

Chapter 5同じ道を通った人は、ひとりもいなかった

ここで、正直に書いておきたいことがあります。

長く臨床をしてきて、自分の運命を引き受けられるようになった方たちを、何人も見てきました。その道すじに共通点があるかと問われれば——ありませんでした。

ひとつの型に整理して差し出せたら、書き手としては楽です。けれど、それをやった瞬間に嘘になります。人によって違い、背景によって違い、置かれている環境によって違う。同じ手順を踏んだ人は、ひとりもいませんでした。

できるのは、実際に誰かが通った入口を、並べて置いておくことくらいです。以下は、その一部にすぎません。順番も、優劣もありません。

時間が経つのを、ただ待つ

何もしない期間が、必要なことがあります。傷が浅くなるのを待つ、というより、向き合うだけの体力が戻るのを待つ時間です。焦って動いて悪化する例を、私は何度も見ています。 ただし、待っている間に生活が壊れていく場合は、待つこと自体が危険になります。

場所を、物理的に変える

住む場所、働く場所、会う人を変える。心の持ちようを変えるより、環境そのものを入れ替えるほうが早い場合があります。逃げではありません。安全の確保です。 一方で、変化そのものが大きな負荷になる方もいます。体力と資源の見立てが要ります。

身体のほうから、入る

眠る。食べる。歩く。呼吸を整える。思考を扱う前に、身体の状態が変わることで、見える景色が変わることがあります。考え方の問題ではなかった、と後から分かる方は少なくありません。 身体に触れる実践が、かえって記憶を刺激することもあります。

抱えたまま、手を動かす

先ほどの森田の道です。不安や怒りが収まるのを待たず、抱えたまま、今日やるべきことに取りかかる。気分が整ってから動こうとすると、いつまでも動けません。動いた結果として、気分があとからついてくることがあります。 ただし、消耗しきっているときにこれをやると、燃え尽きます。休むことが先です。

筋道を、つけ直す

何が起きたのか、なぜそうなったのかを、順を追って言葉にしていく。先ほどの研究が示していたのは、この「筋道が見える」感覚の重さでした。混沌としたままの記憶に、時系列と因果を通していく作業です。 ひとりで記憶に触れると、飲み込まれることがあります。この作業だけは、伴走者がいたほうが安全です。

何かに打ち込み、一つの形にする

何でも構いません。最後まで作りきる。一つ完成させる。「自分にはこれができた」という事実は、どんな励ましの言葉よりも強く残ります。そして作ったものは、たいてい誰かに届きます。 ただし、これは打ち込める余力が戻ってからの話です。

自分を罰することを、やめてみる

原因を、自分の内側から外に出す。あれは自分の落ち度で起きたことではなく、環境や巡り合わせや、他者の行いによって起きたことだった。犯罪学者シャッド・マルナの研究では、困難な過去から立ち直った人の語りに、この切り分けが共通して見られたと報告されています。 ここを飛ばして肯定に進むと、肯定が自己処罰の別名になります。

人と、もう一度つながってみる

否定されない場所に身を置く。誰かの役に立つ経験をする。自分は取るに足らない存在ではない、という感覚は、頭で言い聞かせても育ちません。人の間でしか戻ってこないものです。 つながる相手を誤ると、傷が上塗りされます。急がないほうが安全です。

言葉や、思想を借りる

哲学、宗教、文学、誰かの評伝。自分の状況を説明してくれる枠組みに出会うと、混沌に輪郭が生まれます。十年前の私が、ニーチェと中島先生の言葉を借りたのも、これにあたります。 枠組みが強すぎると、今度はそれに自分を合わせにいってしまいます。

専門的なケアを、使う

カウンセリング、医療、福祉の制度。ひとつの選択肢です。特に、記憶や感情の波が生活を侵食している場合には、扱い方を知っている人と組んだほうが安全です。 ただし、相性があります。合わないと感じたら、変えて構いません。

並べてみて、改めて思います。どれかが正解ということはありません。ある人を救った道が、別の人には毒になります。順番を守る必要もありません。

ひとつだけ補足させてください。理不尽な目に遭った人を見たとき、人は無意識に「あの人にも落ち度があったのでは」と考えたくなります。世界は公正であってほしい、という願いが、そう思わせるのです。運命愛という言葉も、油断するとこの穴に落ちます。自分が選び取ったものと考えるのは、これからを自分の手に戻すための構えであって、過去の責任があなたにあったという意味では、決してありません。

もうひとつ。この道のりのどこにも、「怒りを手放す」という段階はありません。森田の言うとおりです。消そうとしなくて、いいのです。怒りは、あなたを守るために働いてきた心の一部です。抱えたまま進んで構いません。

Chapter 6選ぶ、ということ

ここまで読んで、結局どうすればいいのか、と思われたかもしれません。

その問いに、私は答えを持っていません。あなたの背景も、今の環境も、抱えているものの重さも、私は知らないからです。知らない人間が差し出す一本道ほど、危ういものはありません。

ただ、ひとつだけ言えることがあります。

どれを選ぶかよりも、
自分で選んだ、ということのほうが効きます。

押しつけられた苦痛の前で人は崩れ、自ら選び取ったものには耐えられる。中島先生の言葉が指していたのは、まさにこのことでした。フランクルが、最後まで奪われないと書いたのも、この一点です。

だとすれば、回復の方法についても同じことが言えるはずです。誰かに勧められた道を、言われた通りに歩くだけでは、それはまだ押しつけられたものです。数ある入口を眺めて、今の自分にはこれかもしれない、と手を伸ばす。あるいは、今はどれも選ばないと決める。

選ばないという判断も、立派な選択です。

その一手が、すでに運命愛の始まりなのだと思います。出来事は選べませんでしたが、ここから先の一手は、あなたが選んでいます。

おわりに

ニーチェは、必然的なことを愛せ、と書きました。中島先生は、そこに梯子をかけてくださいました。十年前の私は、その梯子を見上げて、ただ感嘆していたのだと思います。

今、付け足せることがあるとすれば、梯子は一本ではない、ということくらいです。

どれに足をかけるか。あるいは、今日はかけずにおくか。

決めるのは、あなたです。

数ある選択肢のひとつとして、
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参考にした本・研究

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